日本の古典文学の魅力

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日本の古典文学の魅力

塾長ブログ

2019/10/02 日本の古典文学の魅力

授業風景

日本の古典文学は世界の人を惹きつける

 

ドナルドキーンは1940年にタイムズスクエアの本屋で源氏物語を見つけると、たちまち日本に魅了されました。

 

【時々、何度も細かいところを読み直しながら、私は読むのやめることができませんでした。源氏物語の世界と、私の世界とを比べてみました。

 

源氏物語の世界では、怒りが、けして暴力に至ることはなく、戦争もありませんでした。主人公の光源氏は、ヨーロッパの英雄小説の主人公たちとは違って、肉体的に頑強な男性としては、描かれておらず、男性が十人集まっても、持ち上げられないような岩を、持ち上げることができる、スーパーヒーローのようなこともできませんでした。光源氏は、政権を取ることができなかったからではなく、彼は人間で、この世の人生は、悲哀に満ちていることが、わかっていました。】

 

【この時まで私は日本は、主に軍事主義国だと、思っていました。】

 

海軍語学学校で日本語を勉強した後、第二次世界大戦中、キーンは太平洋地域で、情報将校をしていました。彼の仕事の1つは文書の翻訳でした。

 

その文書の中に、日本兵によって書かれたノートがありました。

 

『その小さなノートは日記だと言われました。すでに翻訳していた印刷された文書と違って、その日記は、時々とても感動的で、兵士たちの最後の日々の苦悩が、記録されていました。』

 

『時々日本兵の日記の最後のページには、この日記を見つけた人は、戦争の後で、この日記を家族に戻してほしいと、英語で書かれていました。私は、してはいけないことになっていたのですが、これらの日記を取っておきました。というのも、その日記を、日本の兵士の家族に戻そうとと思っていたのです。しかしながら机を検査され、それの日記を、持って行かれてしまいました。このことは本当に残念だことでした。

 

 

そういうわけで、私が本当に知った、最初の日本人は、それらの日記を書いた人でした。もっとも、私が彼彼らに会った時はすでに、彼は、みんな亡くなっていたのですが。』

 

 

戦後キーンはアメリカに戻りましたが、日本にずっと魅了されていました。1953年彼は再び日本にやってきましたが、今度は京都大学で、勉強するためにやってきたのです。

 

『京都に滞在していたある夜に、日本人の友達と先斗町を歩いていました。先斗町はとても美しくて、自分の目が、ほとんど信じられないくらいでした。狭い路地の両側にある建物は、どれも日本風でした。各家の軒先には、提灯が掛けられていて、路地沿いを、着物を着た若い芸者さんが歩いていましたが、その着物の金糸が闇の中で、キラキラ輝いていました。先斗町は女性的な面で、日本文化の別の面のようでした。

 

その夜は、先斗町はとても神秘的でしたが、最近先斗町が変わってきてる様子を目にするのは、悲しいことです。』

 

『龍安寺も近くにありました。海軍語学学校にいた時、この寺の有名な、砂と石の庭、の噂を聞いて、とても見たいと思っていました。時々、観光客もやってきましたが、どういうわけかその石と砂の美しさを目にすると、観光客かいつも口にする感嘆の声が、沈黙に変わるのでした。

 

私は月に照らされたその庭を、見に行ったある夜のことをいちばんよく覚えています。私はおそらく特に何も考えずに、その石と砂の庭を眺めていると、そばで音がしたのが聞こえました。見渡すとその寺の住職の奥さんが、私のそばに一杯の杯のお茶を置いたのが見えました。私たちは、しばらく話をしました。』

 

「京都に関して、いや、実際日本人すべてに関して、私が抱いている最も印象に残る記憶は、私が会った人々についてです。それは友達になった人たちだけではなく、龍安寺の住職の奥さんのように、知り合いでもないのに、私に親切にしてくれた人達でもあるのです。」

 

京都滞在中にキーン『日本文学選集』を編集しましたが、それは日本文学の世界的な発展に、多大な影響を与えることになった重要な作品です。

 

 

2011年1月、コロンビア大学を退職した後、キーンは日本を自分の故郷にしようと決めました。次の年、89歳で彼は日本に帰化しました。

 

「もし東日本大震災がなかったら、私が日本国籍を取得した事は、新聞でほんの2・3文の記事にしかならなかったでしょう。けれどもこの大惨事によって、私の個人的な希望に特別な意味が加わったのです。たくさん手紙をもらいました。その手紙を書いた人たちは、私が日本に定住すると決めたことによって、元気づけられ感動していました。」

 

 

キーンは日本は、ちょうど戦後そうだったように、この大惨事から立ち直って、以前よりもっとさらに素晴らしい日本になると信じていました。彼は1945年の12月に、10日間ほど東京を訪れたことがありました。残ってるのは倉庫と煙突だけでした。日本が再建するには、50年以上かかるだろうと、みんなは言っていました。

 

1953年キーンは日本に戻ってきました。

 

日本の復興は、誰も可能だと考えなかったくらい、急速に成し遂げられていて、日本は全く違った国になっていました。

 

1955年キーンは、松尾芭蕉の旅をたどるため、東北をめぐりました。

 

戦時中ほとんどすべて破壊されたのですが、その仙台が復興している姿を見ました。彼は中尊寺を含めて、松尾芭蕉が訪れた場所の多くを、見つけることができました。

 

2011年キーンは、東日本大震災の6ヶ後、再びその寺を訪れ、聴取の前でスピーチをしましたが、その聴衆の中には、大震災で家が破壊された人達も含まれていました。

 

そのスピーチのあと、1人の日本人の年配の女性が近づいてきました。『彼女は私と握手をし、私は心を動かされました。私たちの握手は、生涯続く私と日本の絆の象徴だと感じました。私は日本に心から感謝してます。私はこれらの人達と日本に一緒に暮らし、彼らとともに死にたいと思っています。

 

なぜなら、私は日本を愛し、日本を信じてるからです。私は日本とともにありたいと思っているからです。』

 

 

 

清少納言の枕草子をキーンは次のように訳しています。英語ではどのように聞こえますか?

 

ドナルドキーンのような人達のおかげで、たくさんの日本文学が、今、英語の翻訳で読むことができます。以下の主要な日本文学作品の翻訳文を読んでみましょう。それらは英語ではどのように聞こえますか?

 

それらの文章はその出所の本と適合することができるかどうか見てください。

 

①春は夜明け、その時ゆっくりと青白くなっている山際が、赤く縁取られかすかに赤紫色に染まった雲が断片的に空にたなびいている。

 

夏は夜、もちろん月夜もいいが、月のない闇夜もいい、蛍が迷路のようにあちこち飛び回るのは美しい。また、ほんの1・2匹が、闇の中をほのかに光ってるのを見るのも楽しい。夏の夜に降る雨もまた美しい。

秋は夕暮れ、ギラギラした太陽が山の緑のすぐそばに沈み、今はカラスさえ、3匹か4匹、あるいは2匹から3匹で、自分たちのねぐらへと、急いでるのは心動かされる光景だ。

 

さらにもっと魅力的なのは、野生の雁が、遥か彼方の空に、とても小さく連なって、飛んでいる光景だ。そして太陽が沈み、闇が広がっていく中で、風や秋の虫たちの歌を聴くのは、とても言葉では言い表せないほどだ。

 

月日は永遠の旅人です。行き交う年も、また旅人です。船に乗って人生を過ごしたり、馬を引いて、年老いていく人たちは、永遠に旅をしています。そして旅をして行き着いた所は、どこでも彼らの住処のです。

 

 

一例を挙げてみましたが、いかがだったでしょうか。文章がわかりやすくて、親近感を感じますね。とても不思議な感じがします。皆さんもぜひ、日本の古典文学を読んでみましょう。

 

 

宇治市で丁寧な個別指導を行うマンツーマン指導専門プライベート学習教室では、日本の古典文学の感動や楽しさを、英語の翻訳を読んで勉強しています。

 

 

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