芸術は芸術家たちによって美術館から自由に解放される

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芸術は芸術家たちによって美術館から自由に解放される

塾長ブログ

2019/11/08 芸術は芸術家たちによって美術館から自由に解放される

学校帰りの生徒

 

芸術家たちは100年も前から美術館からの解放を叫んでいた

 

 

少し前から、アルバート・アインシュタインや徳川家康や坂本龍馬が、丸の内の所々に存在していることを、知っていましたか?大抵の方は、「えー多少は」と返答されると思います。彼らは【丸の内ベンチアート】の1部でしたが、それは有楽町と大手町の間のベンチに、有名人の等身大の像が置かれていた芸術展示です。

 

【私たちは自分の生活の1部として芸術を楽しむべきです】とこのプロジェクトの管理人は言いました。

 

多分あなたは、絵画や彫刻や陶芸などの芸術を、美術館で見ることに慣れているでしょう。しかしこの丸の内の展示は、芸術を美術館から取り出して、私たちの日常生活に取り入れることでした。

 

丸の内展示は、芸術と生活の間の境界を消す、芸術の1例で、それによって私たちは、芸術家が作ったものを面と向かって、見ることができ、新しい種類の考えに道を開くのです。

 

ベンチに座っている坂本龍馬の像は、美術館の像より人間らしく近づきやすいのです。

 

もし通りを歩いていて、この坂本龍馬が見えたらどうしますか?もしあなたが他の多くの歩行者と同じならば、彼の隣に座るかもしれません。彼の肩に腕を回して、誰かにあなたたちの2人の写真を、撮ってくれるように頼むかもしれません。おそらくあなたは坂本龍馬がどのようにして、日本を変えて、自分はどのように日本をかえるか、について考えるでしょう。あるいは坂本龍馬と友達だ、ということはどのようなものだったのだろうか、ということについて考えるでしょう。

 

 

 

 

おそらく坂本龍馬の隣に座って、あなたは見慣れた周囲の状況新鮮を目で見て、坂本龍馬がそれらをどう思ったのかを、じっくり考えるでしょう。そして突然あなたは、個人的に芸術にかかわるのです。これが芸術家が望んでいること

 

なのです。つまりあなたの注意を引きつけ、あなたの行動を変えるような方法で、突然芸術をあなたの生活に持ち込むのです。

 

ある晴れた日の午後、あなたは携帯電話のメールを打ちながら、ぶらぶら歩いてるかもしれません。そして・出くわすのです。ホームレスの北極熊

 

あなたは立ち止まってみます。もう一度見ます。本当にホームレスの北極熊でしょうか?ちょっと前、あなたは自分自身の物思いにふけっていました。次の瞬間、あなたはとても注意深くなって、あなたの神経をあなたのちょうど目の前にあるものに、集中させました。

 

あなたは通りのこの場所に座って、『北極熊は何をしてるんだ?どうして彼はホームレスのような格好してるんだ?彼はホームレスの人たちを、からかっているのだろうか?たぶん彼にいくらかのお金をあげるべきなのだろうか?それらの看板には何が書かているのだろうか?私は何をすべきなのでしょうか?』と考えているかもしれません。

 

その芸術家は、あなたがいつもしてることを、やめさせることに成功しました。彼はより深いレベルで、あなたが世界と影響し合うようにさせたのです。

 

そのホームレスの北極熊は、マーク・ジェンキンスというアメリカ人の芸術家の作品です。彼は動物や人間の実物そっくりの彫刻を作り、そしてそれを公共の場においていますが、許可を得ていない時も時々あります。インタビューで、なぜそのような芸術を作るのか、と聞かれたとき、ジェンキンスは芸術家として、私は人々の周りの状況について、何が真実で、何が真実ではないのか、疑問を感じさせることが好きだのです。ただ彼最近人々はあまりに、携帯電話に夢中になっています。はただ、彼らに、顔をあげてほしいのです。と言いました。

 

環境活動家とともに活動しながら、ジェンキンスは、地球温暖化について注意を促すために、このホームレスの北極熊を作りました。この芸術作品よって、彼らの生息地が現在失われているので、本物の北極熊の問題にも注意が促されているのです。ジェンキンスは、人々に「ホームレスの人達に対して抱くように、北極熊に対しても共感して欲しいと願う、芸術家の一人です。私たち芸術家は、それが2つの関連した問題だと思っています。」と言いました。

 

芸術によって、私たちは微笑むと同時に、考えさせられます。芸術はユーモアに富んでいるし、真剣でもあります。

 

ブラジル人の芸術家、ネレ・アゼベドによって作られた氷の像があります。

 

それらは、氷から作られていて、ベルリンの公共広場に、芸術の一つとして置かれました。そしてそこで、あっというまに溶け始めたのです。この芸術家の、「「溶けていく人々」は、私たちにどのようなメッセージを、送ろうとしていると思いますか?

 

あなたは、これらの小さな像はちょうど、ジェンキンスの芸術作品と同じように、地球温暖化の危険性に対する警告だと考えるかもしれません。実際、この芸術家の解釈は正しいかもしれません。それらによって、グリーンランドや南極大陸で溶けている氷帽に注意を引かれる人もいます。

 

しかしながら、アゼべドという芸術家は、もともとこの「溶けていく人々」の意図は地球温暖化とはほとんど関係なかったと言っています。

 

彼女は気候活動家ですかと尋ねられたとき、違うと言って最初「溶けてゆく人々」は、公共の記念碑に対する批判だったと、この芸術家は付け加えました。彼女は英雄たちは平凡な像に取り替え、永久に壊れない石を、溶ける氷に取り替えました。彼女は思い出しています。「この芸術の企画は単発の底から始まりました。その後たくさんの小さな氷の像を、いくつかの都市の公共の場所におきました。その小さな像は溶けますが、その記憶は、写真やそれを見たすべての人の心の中に残ります。立派な記念誌に残されてえいる、偉大な英雄たちとちょうど同じように。」

 

彼女は、どんなに立派な記念碑でさえ、いつかは粉々になってちりになり、「溶けていく人々」とちょうど同じように、なくなってしまうだろう、と付け加えたに違いありません。

 

2005年以来、アゼベドは世界中の様々な国で、「溶けていく人々」をずっと展示し続けています。そして現在、彼女の作品を気候変化の芸術に選んでいます。彼女の芸術作品のこの新しい解釈を、受け入れています。彼女は言っています。

 

「芸術作品の解釈は自由です。芸術の作品によって、この星での私たちの存在を、脅かしている重要な問題が語られることは、うれしいことです」

 

また、公共の記念碑との私たちの関係に、興味を持ってる日本人の芸術家である、西野達は、全く違った方法で、この問題に取り組んでいます。シンガポール・ビエンナーレ2011の主要企画の1つとして、カバーシンガポールの国民的記念碑である、マーライオンの背景を変える、というアイディアを思いつきました。そのマーライオンは、頭がライオンで、体が魚の架空の芸術的生き物です。

 

西野は、マーライオンを動かさずに、豪華なホテルの部屋に、そのマーライオンを置こうと計画しました。西野は、かなり変わっていて、衝撃的に感じる人さえいました。彼はその高さ8.6メートルの架空の生き物の前に、豪華なホテルの部屋を建設したのです。

 

そのマーライオンホテルによって公共の場所が個人的な場所に変わりました。あなたは、自分のホテルの部屋のすぐそこに、有名な記念像を見ることができるのです。誰でもホテルの部屋の真ん中で、床から姿を現している半分ライオンで、半分魚の像のこの奇妙な光景の芸術写真を、撮ることができるように、このマーライオンホテルは一般公開されていました。

 

有名な記念像と一緒に部屋で眠ることについて、どう感じますか?あなたの答えがどうあれ、多分あなたは今までに、そのような質問をされたことがないでしょう。あなたがマーライオンホテルへの階段を、上がっていると想像してみなさい。ホテルの部屋へ入ると、突然あなたが、その芸術の作品と向かい合っていると気づきます。このような状況で、あなたはどう感じるでしょうか?

 

そしてホテルの部屋の窓から外を眺めれば、マーライオンの視点から、物事を見る珍しい機会を得るのです。あなたの世界の見方は、変えられています。この芸術の企画を通じて西野は、当然だと思われているかもしれないことや、ただ普通だと思われていることについて、人々に新しい認識を、与えることに芸術は、成功しました。

 

これは多分、芸術が私たちに対して、できる最も重要なことの1つでしょう。芸術が好きであろうが、嫌いであろうが、それは私たちの日常生活の一部であり、私たちに「周りの世界を見なさい。目覚めなさい!関わり合いなさい!」とメッセージを送っています。

 

 

マークジェンキンスのような芸術家たちは、通リや、地下鉄の駅や、丸の内の公園のベンチのような公共の場所で、身近であるべきだと考えています。彼らは、芸術を自由にして、美術館から脱出させたいのです。

 

約100年前でも、別のグループの芸術家たちが、似たような見識をもっていました。彼らは美術館によって、芸術として認められるに値する多くのものが、遮断されていると感じていました。これらの芸術家たちは、日常的なものを取り上げ、それを額縁に入れたり台座に置いたりして、それらが芸術作品だと主張しました。彼らは「誰に何が芸術か述べる資格があるのか、芸術家か、それとも美術館長か?」と尋ねました。

 

彼らは、芸術が美術館に、押し入る手助けをしようとしていました。フランス人のシュルレアリストのマルセル・デュシャンは、そのような芸術家の中で最も有名な1人です。

 

ここに彼の2つの芸術作品があります。帽子掛けと普通のトイレの備品ですが、彼はそのトイレの備品を、金物屋で買ってきて、台座に乗せて、『泉』というタイトルをつけました。また彫刻として、自転車の車輪を展示しました。もし芸術家は、それは芸術だといえば、それは芸術なのでしょうか?

 

デュシャンは、ちょっとした悪ふざけをしていましたが、真剣な主張もしていました。

 

最近500人の美術評論家たちは、『泉』を最も影響力のある現代芸術の作品と呼びました。

 

1971では、どこにでもあるものに、タイトルをつけて、それを台座において、威厳を与えることは、何が芸術で、何が芸術ではないのか、という既成概念に対する衝撃的な挑戦でした。評論家たちは、芸術作品になるためには、そのものは、最低限、芸術家の手によって、修正されていなければならない、と信じています。

 

しかしながら多くの評論家たちは、単に物を移転させて、それにタイトルを与えることが、そのものの修正の一部、となると信じています。というのも、そうすることによって、その機能や、その地位に対する私たちの認識が、変わるからです。

 

ミケランジェロは石の塊を拾い上げて、それに手を加えて、それをダビデ像と呼びました。

 

デュシャンは、トイレの備品を取り上げて、それに手を加えて、それを『泉』と呼びました。

 

それらは両方とも芸術でしょうか?

 

皆さんが決めてください。

 

長い文章になりましたが、芸術は、社会に様々な形で影響を与えてくれる内容や、存在感を持っています。改めて芸術を見直してみましょう。英語や国語の知識を増やす意味で、是非この芸術について書かれた文章の中から、大切なものを読み取ってください。

 

宇治市で丁寧な個別指導を行うマンツーマン指導専門プライベート学習教室では、煩雑な毎日の学習の中で、芸術的観点をもって眺めれば、心の落ち着きを、少しでも取り戻せることを、生徒と日々考えています。

 

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