世界を救った人

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世界を救った人

塾長ブログ

2019/12/05 世界を救った人

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世界を救った人、それはどんな障害にも、けして屈服しない人のことです

 

これは尊い命を捧げて、世界を救った1人の医師の物語です

 

大きな感動が伝わってきます。是非、目を通してください

 

2003年の2月23日、香港からの飛行機がハノイに着陸しようとしていました。乗客の1人である、中国系アメリカ人の実業家は、少し熱っぽいと感じていました。彼の中に、まだ世界に知られていないウイルスがはびこっていることを、誰も知りませんでした。実際、世界のどこから来たのかわかりませんが、この実業家は、SARSと呼ばれる伝染病の発生を引き起こして、ベトナム全土を混乱に陥れたのでした。その飛行機はハノイに着陸し、その実業家は街の中に消えていきました。

 

カルロ・ウラバー二医師は、イタリアの小さな町で生まれました。その町の病院で働きながら、ウラバーニは、世界の「国境なき医師団」のメンバーとして、しばしばアフリカへ行きました。そしてその間ずっと、彼は貧しい子供たちの手当てをしました。陽気で親しみやすかったので、彼は周りの人々や患者に人気ありました。

2000年、彼は奥さんと3人の子供たちを連れて、世界保健機構からの伝染病の専門家としてベトナムへ行きました。

 

ウラバー二がハノイ、フレンチ病院から電話を受けたのは、2003年3月3日のお昼頃のことでした。医者は、ウラバーニーに助けを求めて言いました。「香港から来た観光客が今深刻な状態です。私たちには、彼のどこが悪いのかわかりません。来て彼を診てくれるとありがたいのですが。」

 

ウラバーニは急いでいき、その患者が呼吸困難になってるのを見ました。その人は40度近い高熱が出ていて、顔や腕や足は、紫色になっていました。彼は、30分以上痛みで咳をし続けました。これがウラバーニとその病気との戦いの始まりでした。あらゆる検査をしたにもかかわらず、彼は、その病気の原因を、見つけることができませんでした。

 

 

これは世界で知られるインフルエンザではない、とウラバーニは言いました。私たちはこれが何なのか、解明しなければならない。

 

ウラバー二は、その患者が、中国の広東省出身の人と会ったのではないかと思いました。

 

そこの人々が、謎の肺炎の発生によって、恐怖に陥っている、と聞いたことがあったからです。しかし誰にもその患者が、世界の誰と接触したかは、はっきりわかりませんでした。ウラバーニと同僚たちは、病気の広がりを見守り、メールで世界保健機構に連絡することしかできませんでした。

 

まもなくその患者を世話していた看護師が倒れました。恐ろしいほどの頭痛と筋肉痛で、彼女は動けなくなりました。その後、勤務中に看護師がもう1人倒れ、似たような症状でした。まもなく多くの看護師たちが、気分が悪いと訴え始めました

 

この世界の医療者として、ウラバーニと同僚たちは、その病気が広がるのを防ぐために全力を尽くしました。しかし彼らの努力は、全く何の効果もありませんでした。まもなくその病気にかかった病院の職員の数は、17人になりました。

 

その病院の隔離病棟は、苦痛と高熱で苦しんでる人のうめき声で、あふれていました。

 

感染していない医者や看護師は、ほとんどいなかったので、病院ができることはほとんどありませんでした。その上、彼らを治療するための医療設備や効果的な薬もありませんでした。

 

ウラバーニは、見つけたことを記録し、サンプルを検査し、その病気を止める手段を考え出そうとしました。患者に現れた症状を、詳細に書き留めました。

 

来る日も来る日も、彼は世界保健機構の職員に、メールでデータを送り続けました。そして、病院で起こってることを、世界に知らせてほしいと頼みました。

 

 

ウラバーニは、さらに世界保健機構に、彼や職員を助けるために、必要な物や人を、送ってくれるように頼みました。しかし観光事業へのマイナスの影響心配したので、ベトナム政府は、世界保健機構とウラバーニに、協力するのするのを、いやがりました。彼の要求は、断られました。

 

 

病院では、患者を隔離病棟に入れ、職員以外誰もそこに入れませんでした。ウラバーニは患者のところへ行くことを、決して諦めませんでした。彼はベッドの側に座り、彼らに希望を与え続けました。

 

このウイルスに対しては、まだ効果的な薬はありません。『でも永遠に生きるウイルスは、世界には、今のところありません。時間が経れば必ず死滅しますよ』とウラバーニは言いました。

「私はあなたと一緒にいますから、気を強く持ってください。」患者の1人が思い出していました。「世界は、私たちを見限ったけれどウラバー二先生は、見限りませんでした。私たちをとても励ましてくれました。」しかし、ウラバー二は、この時自分の体に何が起こっているのか少しも知りませんでした。そのウイルスは、彼の中でも急速に成長していたのです。

 

3月11日、ウラバーニが待ち望んでいた、世界保健機構から伝染病の専門家がハノイに到着しました。その専門家は、オシタニ医師でウラバーニの上司でした。彼に病院を見せて回って、ウラバーニは、突然「もしあなたがこの病気にかかったらどうしますか」と尋ねました。オシタニは答えました。「最善の行動は、ハノイから出ることが正しいことだと信じています。」彼は続けました。「でも家族がある1人の男性としては・・・私にはわかりません」

その夜、ウラバーニは、こっそりハノイを出てバンコクへ向かいました。そこで彼は伝染病を専門に扱う病院で治療を受けました。現在、彼自身も患者でした。

 

 

3月12日に世界保健機構は世界中に警戒態勢を敷きました。それは世界保健機構設立以来、初めてのことでした。そのウイルスがベトナムの病院でどのように広がリ、いかに早くその病気、SARSが、患者が呼吸もほとんどできなくなるような、最終段階に到達するかについて、はっきり述べられました。ウラバーニが、自分の命を犠牲にして、彼らに送り続けたものは極めて重要な情報になりました。その瞬間から、世界中でその病気が広がるのを防ぐため、様々な対策がとられるようになりました。

 

3月27日、ウラバーニは、SARSで申告の状況になっていました。2日後彼は妻のジュリアナに見守られて亡くなりました。彼が初めてハノイでその病気の観光客を見てから、27日後のことでした。

 

ウラバーニは46歳でした。7月、世界保健機構は、SARSが制圧されたと公式に発表しました。ウラバーニが亡くなって、オシタニは涙を流しました。「その状況の下で1番良いと信じたことをしたと、私は思います。患者に対する彼の献身的態度がその1例です。」

 

 

もしウラバーニが、発生した早い段階で、そのウイルスを見つけていなかったら、SARSによって、多くの人が死んでいたでしょう。

 

 

専門家によると、犠牲者の数は、100万人に対していたかもしれません。

 

1999年、世界の国境なき医師団に、ノーベル平和賞が与えられました。

 

ウラバーニは、世界の中でイタリアの報道機関に、次のように言いました。

 

私の希望は、世界中の病気の人々に、できる限り最善の医学的治療ができることです。そうするために、私は2つのことを続けます。

 

1つは、患者の側にいること。もう1つは、どんな障害にも、決して屈服しないことです。

 

 

 

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